いきなり叫んだ俺に、伊吹は驚き、ぽかんとしている。
「……いや、ごめん。え……っと、新堂さん、でいい?」 それでも、俺に合わせようと、言い直してくれた。 なのに、俺は自分の言葉が理解できていない。(なんで……俺は怒ったんだ? 伊吹が『凜ちゃん』って言ったから……?) ズキズキと痛む頭を押さえ、俺は壁に寄りかかった。変な汗が噴き出て、シャツが張り付いて気持ち悪い。 別に、アイツは俺のものじゃないし、そんな感情もない。アイツはただの標的で、俺の、俺の……。「なんだよこれ……頭痛ぇし、訳分かんねぇよ……」 うずくまる俺に伊吹が駆け寄り、心配そうに覗き込んでくる。「おい、マジで顔色ヤバいぞ。保健室に戻ろう。まだ榊いんだろ」徐々に遠くなっていく声に応えることもできず、俺は意識を手放した。
☆
気が付くと、周囲は真っ白な霧に覆われている。少し歩くと、小さな遊び場に出た。周りにはスモックを着た子供が大勢いる。その中でひとりだけ、輝いている子が俺の袖を引っ張っていた。
「ゆうちゃん、あそぼ」
舌っ足らずな声で呼ぶ名前は、ひどく甘い響きを持っていて、脳が痺れるような感覚に陥る。あまりに眩しくて、顔はよく見えないが笑っていることだけは何故か分かった。
その手を取ると
目が覚めると、保健室は夕暮れ色に染まっていた。ぼーっと天井を見つめたまま動けずにいたら、横から母親が顔を出す。「夕貴、目ぇ覚めた? いくら小さくても抱えるのは無理だから、起きるの待ってたんだよ。もう下校時間過ぎてるっていうのに、先生にご迷惑かけて!」 その声を聞きつけたのか、榊がカーテンを開け入ってくる。「うん、顔色もだいぶマシになったね。お母さん、念のため、明日にでも病院で診てもらってください。運んでくれた伊吹くんが、頭痛が酷いみたいだって言っていましたから」 それだけ言うと、榊は会議があるとかで保健室から出ていった。母親は礼をしながら見送り、俺に問いかける。「いったいどうしたの? こんなこと、最近なかったのに」 その言葉に、俺は引っ掛かりを覚えた。「……最近……?」 母親はしまったと口を閉ざすが、俺は更に聞く。「なぁ、俺の嫁さんって、誰だっけ」 それを聞いた途端、分かりやすくビクリと肩が跳ねた。やっぱり、知っているんだ。「母さん、教えてよ。思い出したいんだ」 ためらう母親に、俺は可愛らしく瞳を潤ませてダメ押しする。「まだ……好きなんだよ……」 俺のよくない噂が広がるのと一緒に、母親の態度も変わっていた。『昔は可愛かったのに』が口癖で、ことあるごとにアルバムを開いていたから、効果はあるはずだ。 その目論見は見事に当たった。「……
いきなり叫んだ俺に、伊吹は驚き、ぽかんとしている。「……いや、ごめん。え……っと、新堂さん、でいい?」 それでも、俺に合わせようと、言い直してくれた。 なのに、俺は自分の言葉が理解できていない。(なんで……俺は怒ったんだ? 伊吹が『凜ちゃん』って言ったから……?) ズキズキと痛む頭を押さえ、俺は壁に寄りかかった。変な汗が噴き出て、シャツが張り付いて気持ち悪い。 別に、アイツは俺のものじゃないし、そんな感情もない。アイツはただの標的で、俺の、俺の……。「なんだよこれ……頭痛ぇし、訳分かんねぇよ……」 うずくまる俺に伊吹が駆け寄り、心配そうに覗き込んでくる。「おい、マジで顔色ヤバいぞ。保健室に戻ろう。まだ榊いんだろ」 徐々に遠くなっていく声に応えることもできず、俺は意識を手放した。☆ 気が付くと、周囲は真っ白な霧に覆われている。少し歩くと、小さな遊び場に出た。周りにはスモックを着た子供が大勢いる。その中でひとりだけ、輝いている子が俺の袖を引っ張っていた。「ゆうちゃん、あそぼ」 舌っ足らずな声で呼ぶ名前は、ひどく甘い響きを持っていて、脳が痺れるような感覚に陥る。あまりに眩しくて、顔はよく見えないが笑っていることだけは何故か分かった。 その手を取ると
保健室を後にした俺は、イライラを隠しもせず廊下を歩いていた。すれ違った奴らが自然と道を譲り、まるでモーゼみたいで笑える。 だけど、俺の内心は荒れに荒れていた。何故か、別れ際にアイツが見せた表情が、頭から離れない。 アイツは笑っていたけど、どこか寂し気で、別れを惜しんでいるような、そんな顔だった。(なんで、こんなに気になるんだ?) アイツなんて、つい最近知ったばかりの胡散臭い『オウジサマ』でしかないのに。 俺はその仮面を剥がして、見た目で判断する奴らがいかに馬鹿か、思い知らせてやる。それだけだったはずだ。 なのに――! 自分を自分で押さえきれず、思いっきり壁に額を叩きつけた。パラパラと落ちる埃さえ腹立たしい。 傍に居合わせた女子が、小さな悲鳴を上げる。 イラ立ちに任せて睨みつけると、足早に去っていった。 そうだ、これが俺なんだ。 アイツのお人好しに当てられて、らしくない罪悪感を抱いてしまった。 大きく息を吐き出し、目を閉じる。 そこには何故か微笑むアイツがいて、思わず自分を殴りつけた。(なんなんだよ……!) やっぱり、何かがおかしい。あれだ、アイツが寝言でもらした言葉。 「……ゆうちゃん……」 何か、大事なことを忘れている気がする。 あいつとは、昨日が初対面であってるよな? そのはずだ、そうでなきゃいけない。
先生が授業を始めても、みんな集中できないでいるようだった。先生もそれを感じているのか、どうでもいい雑学ばかり話している。 噂を信じるなら、リスクを背負う覚悟も必要。 きっと、みんなそれぞれに考えるところがあったんじゃないだろうか。 それは嘘でも、本当でも、間違いだった時に『裏切られた』なんて言わないことだと、私は思った。 先輩の噂には何か理由がある。 それが私の考えであって、もし噂が真実だったとしても、それは信じた私の責任だ。先輩を責める権利なんてないし、先輩が私に応える義務もない。 まだ先輩に会ってから2日しか経っていない。なのに、信じるだなんていう方がおかしい。自分でもそう思うのだから、前から先輩を知っている人から見ればバカみたいなのかもしれない。 だけど、私は信じたい。 何がそうさせるのか、その理由を探すことが、私の存在意義に繋がる気さえしている。 今まで他人に口答えをしたことも無い私が、何故、先輩の悪口に過剰に反応したのか。『王子様』を求められ、素直に従ってきた私が。 窓の外に見える広場を眺めながら、想うのは先輩のことばかり。(そういえば、お昼一緒にって言ってたのに、ダメになっちゃったな……) ちらりと机にかけた鞄に目をやると、胸が締め付けられるような感覚を覚える。まだ涼しいとはいえ、陽射しは徐々に強くなってきた。半日常温で置かれていたお弁当は、さすがに食べられないだろう。お母さんにも悪い事をしてしまった。 教壇に視線を戻すと、先生が思いっきり趣味に走った話を、楽し気に語っている。先生が理科教諭を目指した、そのきっかけだそうだ。「DNAというのは
私の演説じみた話が終わると、先生がひょっこり顔を出す。それは担任でもあり、理科の担当教諭でもある江崎先生だった。 そこでハッとして時計を見ると、既に5時間目の時間に突入している。「す、すみません! 私、無我夢中で……」 慌てて席へ戻ろうとすると、先生は手で制して優しく微笑んでくれた。「いや、聞き惚れたよ。私もこの年になるまで、いろんな噂に翻弄されてきた。オイルショックはみんな知っているよね?」 先生は周囲にも目を向け、話を続ける。「最近も、米不足や増税なんかが連日テレビで報道されている。それに紛れて芸能人のスキャンダル、政治家の汚職、いろんな噂を耳にするだろう。それが悪いとは言わない。僕はただ、自分の考えを持って、自分自身で判断してほしいと思っているんだ。いい噂も、悪い噂もね」 みんなの視線が集中する中で、先生は淡々と語る。「それは学校でも同じだよ。眞鍋さんや瀬戸くんの噂は、職員室でもよく耳にするんだ。だけど、僕の知っている眞鍋さんは、少なくとも噂とは違う。新堂さんを追いかけるのは、ほどほどがいいとは思うけどね」 冗談めかして笑う先生は、いつもより頼もしく見えた。「瀬戸くんについても、僕個人としては新堂さんに賛成かな。もちろん、それを強要するつもりもないし、もしかしたら噂の方が本当なのかもしれない。だけどね、噂を信じるのなら、それ相応のリスクも覚悟が必要だよ」 それを聞く生徒の態度は様々だ。 俯く人、憤慨する人、聞き入る人。 私はじっと先生を見つめていた。眞鍋さんも同様だ。「人の噂も七十五日というだろう? 結局、その程度のものなんだよ。それでも、ただの
視線を周囲に向けたまま、私は更に続ける。「眞鍋さんも、先輩の噂が本当だって、自信を持って言える? 現場を見たりしたの?」 それは眞鍋さんだけに対する問いじゃない。勝手気ままに、無責任に噂を広げる人に対しての問いだ。 眞鍋さんの噂には、多分嫉妬や被害妄想が含まれている。1年の頃はどうか知らないけど、少なくとも2年になってからは私にずっとくっついていたんだから。それでも噂がやむことはなかった。 そして、噂は女子だけじゃなく、男子からのものも多い。これって相手にされなかった憂さ晴らしなんじゃないだろうか。そう感じていた。 だから正直に言う。「私思うんだ。もし眞鍋さんの噂が本当だったとしても、それって男子側にも責任があるんじゃないかって。例えアプローチされたとしても、本当に彼女が大事なら、他に目は移らないんじゃないかな。私、浮気する奴って大っ嫌いなんだよね」 剣道で鍛えた声量は、廊下にも十分届いているはずだ。「女子も、自分が振られた腹いせに言ってるとしか思えない人もいるよ。どれが事実かなんて、私には分からない。ただ無責任に他人を陥れようとするのに腹が立ったんだ。眞鍋さんが私を思って言ってくれているのは分かってる。だから、先輩のことも少し思いやってくれると嬉しいな」 そっと眞鍋さんの手を取り、瞳を見つめる。「噂ってさ、結局は関係ない人が流すものなんだよ。私は『王子様』なんて呼ばれてるけど、そんなんじゃない。ただの女子高生だよ。眞鍋さんが慕ってくれるのは嬉しい。だけど、クラスメイトとして接してくれると、もっと嬉しい」 そう言うと、眞鍋さんは瞳を潤ませ、遂には泣き出してしまった。その頭を撫でながら、ふとした疑問を投げかける。「それにしても……私、先輩の噂